諷刺画999夜(諷刺画 千夜マイナスワン)

19世紀の諷刺画を中心に読み解いていく

Ⅰ-1 「贖罪・洋梨記念碑計画」(1)

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    グランヴィルとフォレスト「贖罪・洋梨記念碑計画」1832年6月7日号『カリカチュール』
 

 「贖罪・洋梨記念碑計画」は1832年6月7日号の『カリカチュール』に掲載された。ここには、コンコルド広場の中央に巨大な梨のモニュメントを建てる計画が描かれている。「洋梨」は、シャルル・フィリポンが考えだした国王ルイ=フィリップの象徴で、当時パリの人間で知らない者はいないほど有名だった。
 洋梨の記念碑をパリの中心に置くことによって、権力を誇示するルイ=フィリップ国王をからかおうというのだろうか。たしかにそれもある。しかしこの諷刺画はもっと大きな問題を暗示していた。

 『カリカチュール』の同じ6月7日号には、シャルル・フィリポンの書いた諷刺画の解説記事が載っているので、まずそれを読んでみよう。この解説文によれば、計画では、巨大な洋梨を飾り気のないブルジョワ的な台座のうえに置き、台座に27+28+29=0という足し算を血の色で刻むのだという。また、なぜ記念碑を「革命広場」のうえに建てるかといえば、「民衆が動く日々[革命のこと]はゼロ以外の結果を生み出してしまうから、台座に刻まれた計算をやり直すような軽々しいことはやめなさい、と人々に注意をうながす」ためである。


 フィリポンお得意の暗示に富んだ書き方だ。まず27+28+29=0という足し算を血の色で刻むとは、7月27日からの3日間に起きた7月革命では多くの血が流されたにもかかわらず、その結果はゼロだったという意味だ。つまり革命によってシャルル10世の政府が打倒されたものの、さまざまな政治勢力の妥協としてルイ=フィリップが国王となり、国民の諸権利などを与える革命精神はないがしろにされ、成果はなにひとつ生まれなかった、ということである。また、「民衆が動く日々…」の文章は、もう一度革命が起きればなんらかの結果が生まれてしまうことになるので、そんな危ないことはしてはいけない、という意味である。もちろん、ゼロではない結果をつくりだす革命をやり直そう、と人々に促しているようにもとれる。

 しかし、この解説文を諷刺画のタイトルと結びつけるとさらに深い意味が生まれてくる。諷刺画のタイトルは、「贖罪・洋梨記念碑計画」projet d’un monument expia-poire となっていて、「贖罪記念碑計画」 projet d’un monument expiatoire の形容詞「贖罪の」expiatoire を、「洋梨」poire にひっかけた造語にかえている。この言葉遊びによって、タイトルには「洋梨(ルイ=フィリップ)」の贖罪記念碑、つまり洋梨を犠牲にして人々の罪を贖う記念碑、という意味が生まれてくる。


 この解説文では、1830年から「コンコルド広場」と呼ばれるようになった場所を、わざわざ大革命のときの呼び名「革命広場」にしている点に注目したい。「革命広場」と「贖罪」から連想されるのは、そこでギロチンにかけられたルイ16世と王妃マリ=アントワネットのことである。実際に「革命の犠牲」となったふたりを祀る贖罪記念碑がコンコルド広場の近くに存在した。

 タイトルと諷刺画を結びつけるとどのような意味が生まれるかを述べる前に、すこし寄り道をしてルイ16世の記念碑を紹介しておこう。パリ右岸、サン=ラザール駅にほど近いところに、ルイ16世とマリ=アントワネットを祀った贖罪礼拝堂がある。ルイ16世小公園のなかにある新古典主義様式の小さな礼拝堂である。ふたりは1793年に革命広場に置かれた断頭台で処刑され、遺体はマドレーヌ墓地(現在の贖罪礼拝堂がある場所)に葬られた。ここにはマラーを暗殺したシャルロット・コルデ、7月王政の国王ルイ=フィリップの父フィリップ平等公、ルイ15世の愛妾デュ・バリー侯爵夫人など、革命期の処刑された人たちが数多く投げ込まれていたが、墓地は1794年に廃止された。ギロチンにかけられた者が増えすぎて埋葬できなくなったことや、付近の住民が異臭の苦情を訴えていたことが原因とされる。

f:id:gnimo:20140423113932j:plain            贖罪礼拝堂 Chapelle expiatoire

 1815年、ワーテルローの戦いで破れてセントヘレナ島に送られたナポレオンに代わって、ルイ18世が返り咲き、王政復古を実現した。王はただちに自らの兄であるルイ16世夫妻の遺骸を捜索するよう命じた。ふたりの遺骸は早くも1815年1月に発見され、王家代々の墓所であるサン=ドニ大聖堂に運ばれた。なぜ埋葬場所がわかったかと言えば、旧マドレーヌ墓地の隣に住んでいた王党派の行政官オリヴィエ・デクロゾー(マリヴォー侯爵の料理長もつとめた人物)が知っていたからだ。マドレーヌ墓地の土地は1794年の閉鎖後、何人かの手を経たのちデクロゾーが購入した。彼は墓所であることを明示するために、そこを高い塀で囲み、糸杉を植えていた。さらにパンフレットをつくり、墓参客まで受け入れてもいた。その土地を国王ルイ18世が買い上げて、そこに贖罪礼拝堂がつくったのである。礼拝堂はルイ16世の命日である1815年1月21日に着工し、1826年に完成した。その後、アンシアン・レジームの遺物としてなんどか破壊の危機に晒されたものの、1914年に歴史記念物に指定され、現在に至っている。

 

f:id:gnimo:20140423114032j:plain                マドレーヌ墓所におけるルイ16世の墓
 
 諷刺画に戻ろう。大革命が起きたので、ルイ16世と王妃マリ=アントワネットが処刑され、「贖罪礼拝堂」ができた。とすれば、ふたたび革命があれば、ルイ=フィリップも同じような運命をたどるかもしれない、ということを暗示していることになる。


 また、諷刺画のタイトル monument expia-poire は、洋梨を犠牲にして革命という罪を贖う記念碑というだけでなく、洋梨(ルイ=フィリップ)の罪を贖う記念碑という意味も含まれるだろう。7月革命を裏切った国王の罪である。さらにもうひとつ、「贖罪」というなら、ルイ16世にたいするオルレアン家の罪も含まれるのではないか。ルイ=フィリップの父であるフィリップ平等公は、1793年1月に行われたルイ16世の処刑を決める国民公会の投票で、「無条件の死刑」に賛成票を投じていた。それ以来、親戚関係にあるブルボン家からオルレアン家は敵視されていたのである。諷刺画には、国王ルイ16世を殺し革命に加担した家系のルイ=フィリップがこんどは一転、革命を裏切るという罪を犯したことを匂わせているのではないか。


 ところで「贖罪・洋梨記念碑計画」の発表は、『カリカチュール』紙の編集長シャルル・フィリポンが想像しなかったような大きな問題に発展するのだが、それについては次回に書きたい。